インタビュー①
根知在住:男性(70代後半)
4月にお話しをお聞きしました。公営水道、圃場のお話しから「水」に話題が移りました。
--------「水」について
東中はしまたけの水しかない。夏は枯れることもあって苦労している。今も東中はポンプアップが必要で金がかかる(その中で仁王堂は水が豊か)。
昔は夜中に水の守をやっていた。水について本当に困っていて、信越用水の水をもってこれないか試みたこともある。2年間連続で踏査したが専門家から見てもとても無理な個所があった。
田畑のいい場所は朝日、日当たり、夜露のあるところ。しかも夜露がどっぷりあるところがいい。杉之当はいい。病気にならないものね。
--------子供の頃について教えてください
尋常小学校2年生(8歳)のとき終戦。廣傳寺、勝蓮寺には戦争の疎開者が多数いたなぁ。
食べ物の記憶が強い。「やきもち」は食えたものじゃない。白いまんまにトト(魚)。どんなにかうまかったか。これほどうまいものはなかった。
小学校時代は悪さしたような気もする。ボスがこわい。いうことを聞かないと遊んでもらえないんだから。「あれ盗んで来い」なんて命令もあった。
「まめひき」の日は本当に楽しみだった。「ゆでぼや」(えだまめをゆでる)どこの田んぼの枝豆をとってきてもいい日。東中と栗山で互いの田んぼの枝豆をとろうとする。夜真っ暗の中、東橋の途中でぶつかったりした。
「この豆の味は、どこそこの家のあそこの田んぼのだ」とわかったものだ。
小学校で立たされたら喜んで川へ魚取りに行った。担任の先生は泣いている、校長先生におもいっきり怒られたりした。学校から帰ると農作業を手伝わずに魚釣りにいく。そして夕飯抜きになっていた。
--------昔と今の地域のつながり、コミュニティについて
コミュニティは今はゼロだ。昔は月に2回は常会(全世帯)をやっていた。こなければ怒られた。昔は一人では何もできなかった。田、人足、側溝用水あげ、山の道なぎ、村人足。これらほど大事にしたものはない。一人で勝手に変なこと出来ない。「一人では生活できない」ということが根底にあった。
今は「役やりたくない」ばかり。まったく困ったものだ・・・(なぜそうなったか?)文明がそうさせたと思う。行き過ぎの文明が原因なんじゃないか。
※貴重で面白いお話しを沢山お聞きしたのですが、スペースの都合上随分省略してしましまいた。残念です(できるだけ、別の機会にご紹介したいと思います)。人と人のつながりの今と昔。昔のある意味「否応なし」のつながりと今の個人自由の風潮。どんな地域づくりが今必要とされているのでしょうか。
聞き手:集落支援員(近藤)
※集落取材やインタビューについてのご意見をいただければ幸いです。
事務局(公民館内)まで。
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