2015年8月31日月曜日

戸土の「境の宮」にて「式年薙鎌打ち神事(しきねんなぎかまうちしんじ)」が行われました

平成27年8月31日の午前。
根知地区の大久保と隣接する長野県小谷村の戸土「境の宮」にて
「式年薙鎌打ち神事(しきねんなぎかまうちしんじ)」が執り行われました。

※根知において戸土はとても身近な場所です。根知の旧大久保集落では昭和30年ごろまで小学生は戸土の小学校に通っていました。中学校は戸土の中学生も根知の中学校に通っていました。
産業も大久保、戸土ともに炭焼き、林業が中心で、様々な助け合って生活し、運動会も一緒にやられていたとのことです。このような身近な戸土での珍しい7年に一度の神事、取材しました。
※戸土の「境の宮」までは大久保から歩いて15分ほどのところです。

霧がかかり、霧雨が時々降る天候です。
神事は10時から始まります。
旧大久保集落のあたりに3つの駐車場が準備されています。
小谷村の方々が大勢スタッフとして来られていました。交通整理もされています。
8時30分過ぎには、その中で一番大きな駐車場が満車となりました。あと残りは大久保からしろ池の森公園に向かう道側に2か所、20台ほどがとまれるスペースがあるくらいです。
この駐車場からは歩きます。
歩いてほどなく県境。新潟県糸魚川市と長野県小谷村戸土の境を示す看板が見えます。
ここからの道はとても狭く、車がすれ違う場所やUターンできる場所がほとんどありません。
歩いて10分ほどで「境の宮」の参道入り口へ。
小さな看板があります。ここからは雨の影響もあり、かなりの悪路。
今日は長靴が正解でした。ずるずる滑るぬかるみを気を付けながら、できるだけ端の草のある場所を歩きます。
歩いて数分で開けたエリアへ。境の宮の境内。神社もみえました。
その入口には受付ブース。パンフレットなどが置かれていました。
ちょうど20名程の団体のみなさんがなんと奥の山道から現れました。
※8時過ぎにしろ池を出発して塩の道を通ってきたとのことです。
 御清水の看板。浄めてから境内に入ります。
9時40分ごろ
すでに多くの方々が神事が始まるのを待っておられます。
神事が始まるまでの間、なぎ鎌をうつ神木が一般の方でも近くで観られるように公開されていました。入れ代わり多くの方が舞台に登って神木、そして過去に打ち込められた歴代のなぎ鎌を見学していました。
10時少し前。ざっと見渡す限り200名以上の見学者がいらっしゃると思われます。
雨よけのブルーシートで入口をカバーしている境の宮の神社
中ではほぼ準備が終わっているようです。
神社の入口横にある看板には、「式年薙鎌打ち神事」についての説明がわかりやすく書かれています。
10時ごろ。突然、雅楽の音が響きます。
お清めお祓いの儀式がはじまりました。
神社入り口での儀式の後、
神木の前にて儀式が行われました。
10時45分ごろ
薙鎌(なぎかま)打ちの神事が始まりました。
各諏訪神社の宮司の方々が神木に向かいます。10名近くの神職の方々が出られました。
動画:雅楽が流れる中、神木に向かう様子です。
今回の薙鎌は、遠くから見ても銀色にピカピカ光っていました。(写真でわからず残念)
合計9回打ち込んで終了。
あっという間の出来事でした。
(しばしざわめきあり。エッもう終わったの?といった声も聞こえます・・・)
薙鎌を打ち込んだ後、神木の前で祝詞(のりと)が7名ほどの神職の方々により唱えられました。
これだけの人数での祝詞はあまり聞いたことがありません。とても素晴らしいものでした。
その後、神社内にて玉串奉奠(たまぐしほうてん)がはじまりました。
視察の私たち(糸魚川市の集落支援員や地域おこし協力隊)は境の宮を後にしました。
※薙鎌打ち神事が終わると見学者の多くの方々が帰られていきました。
境の宮には、根知の方々も見られました。「根知に生まれ、ずっと根知に住んでいるけれど、すぐ近くでこのような珍しい神事があるとは知らなかった。生まれて初めて見学に来た。」とおっしゃる方が何名もおられました。
次回、戸土の境の宮で行われるのは12年後の未の年。霧がかかる神秘的な場、根知のすぐ隣での不思議な時間と空間が現れた神事でした。

今日の夜は根知の代表的なお祭りの一つ、日吉神社秋季大祭の宵の宮が行われます。

※諏訪大社御柱祭の前年、数え7年に一度(丑年と未年)行われる神事で中谷大宮諏訪神社例祭(毎年8月最終日曜日)の翌日に行われます。
※諏訪大社宮司一行が小谷村の中谷大宮諏訪神社に二体のなぎ鎌を奉持し、うち一体を信越国境である戸土の「境の宮」と仲股の「小倉明神」の御神木に7年ごとに交互に打ち込む(丑年は小倉明神、未年は境の宮)

記事:集落支援員(近藤)

2015年8月25日火曜日

特集:集落紹介「大久保集落」

※以下、振興協議会ニュース2015年0825号の追加版記事の内容を掲載しています。

特集:集落紹介「大久保集落」
不定期で掲載するこの特集。今回は「大久保集落」です。
お話をお伺いしたのは山本芳寿さん、屋号情報は伊藤重徳さんです。ありがとうございました。
※聞き手は集落支援員、近藤です。

■大久保集落の概要
・明治22年までは西頸城郡大久保村。集落となり大正には27軒あったらしいが、戦後は23世帯がピーク。
・戸土11戸、横川7戸、おしまわし4戸、中股3戸が戸土の学区であった。
・昭和29年には20戸くらいになっていた。このあたりから減り始めて街、大野へ出たりした。
■産業
・大久保はもともと林業で成り立っていた村、炭焼きの村であった。ほとんどの家がやっていた。
昭和30年がピーク。炭が現金収入の中心で、糸魚川に売りに行っていた。戸土も同じ。
・プロパンガスが入るS34~35年頃に一気に住む人が激減した。
・他の現金収入は牛(肉牛)と蚕(カイコ)。
・牛は大久保はほとんど肉牛。馬喰(ばくろ:牛馬の仲買人の称)が1年に一回くるので売る。
・カイコは1年に3回とっていた。「はるご」(5月、6月に繭玉とれる)、「なつご」(7,8月)、「あきご」(9,10月)。絹糸は1キロ5,000円で売れた。はるごは山の桑。なつご以降はかり桑(畑で育てた桑)を使った。
・大久保にあったトロッコは国のエネルギー政策で実施していた工場用の炭の運搬用。
 →そこで働くために、根知からはもちろん、富山からも沢山の人がきていた。
[炭焼きの生活]
・ほとんどの人が家畜もやっていたから、朝5時くらいから草刈り、1時間くらいやって朝食を食べて、8時ごろに炭焼きに出る。現場は大久保から4キロ前後のところが多かった。
・田植えが終わって、田の草1番、2番が終わる頃、7月中旬に炭焼きを始める。9月半ばに炭を見る。
・①7月中旬。窯の位置を決める。山全体の木を見て、木をどう集めるか(切った木をどう窯まで集めるか、集めやすいか)、水をどう取り入れるか、等々を考慮して位置を決める。※約1週間。
・②窯(と小屋)を作る段取り。※約1か月。窯の型ができる。
・③炭焼き。3回くらい行う。※約3か月。
・1年間に一人が200~300俵(1俵15キロ)炭を作る。1俵は400円くらいになった。
・1つの窯で30~40俵とれるくらいの大きさ。
・「たてかえ」…炭を入れる、出すこと。これは一人ではできない。2人は必要。
・できた炭を大久保まで運ぶ。夕方に2,3俵かついで戻る(炭俵)。一輪車もあった。
・窯は1年で移動か2,3年持つか、木がいい時はその窯の場所で数年もった。
■当時の学校・子供達の様子
・大久保、戸土の子供達は、大正から昭和33年くらいまで、小学生のときは長野県の戸土の小学校で学び、高等科は根知山口へ。
・戦前、戦中は尋常高等小学校。6年間。6.3制で、男子はそのあと尋常高等科、女子は高等女学校へ行く。
・戦後は新制中学となり、義務教育となった。
 →昭和7,8年生まれの人は行っても行かなくてもいいという年代だった。昭和9年生まれの人は中学3年生からはじまった。
※北小谷小学校戸土分校は,へき地等級3級,児童数31名(S.34),昭和46年休校,昭和49年閉校。
※上根知小学校大久保冬季分校はへき地等級2級,児童数12名(S.34)
■戸土、長野との関わり
・電気は大久保は東北電力。戸土(長野)は中部電力。
・今90歳くらいの人達は、大久保と戸土で一緒に運動会をしていた。一度、大久保と戸土で赤白に分かれて戦った時がある。大久保が勝ったが、その後はまた一緒に混合でやるようになった。
・昭和30年くらいまで大久保から歩いて半日で小谷温泉に行っていた。街道沿いに木地屋の人達がいて、漆品などを小谷温泉にもっていって、現金と交換していた。
・戸土と大久保の間に「一石二斗(いちこくにと)」というのがあった。大久保は冬の生活用薪を得るために戸土の木を伐らせてもらう。代わりに米を小作料として渡していた。
■生活・食
・戦後しばらく、戸土の小学校のグラウンドを畑にしていた。食糧については今とはけた違いに厳しかった。80歳くらいから上の人達は経済観念が強いと思うよ。苦労しているから。
・昔は鷹狩も大久保でやっていた。
・昔(昭和30年代)は笹倉温泉や根知梶山でも「湯巻き」が名物だった。ちまきのことだが、米を研いで笹を三角に折った中にいれて、温泉のお湯の中で茹でたり蒸したりする。糸で結んで5つほどにしてぶら下げる。
・大久保でも田畑はしていた。自分たちが食べる分は自分たちで作っていた。現金収入は林業だった。
・早川、西海、能生には工芸品がある。谷が行き止まりだから。主にわら細工(セナコウチン、菅笠、しめ縄など)。根知は行き止まりではないから、そのような工芸品がなかった。
・プロパンで炭が売れなくなった昭和34~35年頃はテレビが入ってきた時期でもある。
 →当初はテレビはこの辺(大久保)では本当に映りが悪かった。
・昭和30年くらいで、ラジオは2軒、蓄音機も2軒。ラジオも感度が悪く、耳をくっつけてきいていた。
・昭和35年、大久保に有線放送が入り各家庭に電話が入った。15軒につき1回線はいるので大久保には2回線はいった。これは便利だった。それまでは大久保のこのあたり(イワナ養殖所)にあったポストに郵便屋さんがきたときに下の状況をきいたりしていたが、そうしなくてよくなった。1回5円。8軒で1回線使っていたが、どこかの家が使っていると他の家では使えない。
・雪深い中で、勤めることは難しい。半年は雪の中。
 →その代り団結力があった「やうち」といって親戚でないけど親戚のような関係をつくっていた。
・ドラム缶で炭焼きすることをここ数年は提案している。入口はオイル缶を使う。
■地すべり
・大久保は昭和19~20年にかけての大雪の影響だと思うが)昭和21年に大規模な地滑りがおき、大久保集落の全世帯が崩壊した。テレビでも全国放送され、大規模な復旧工事があった。掘っては一寸の板を打ち込み、掘っては打ち込み、のひたすら繰り返し。横井戸も7本掘って一本で出た。
・大久保は地すべり地帯。昭和38年、業者がはいり、38,39,40年と調査した。
・5年前(平成22年)にも大地すべりがあり、大がかりな工事が始まった。
■青年団
・大久保青年団の旗がある。色があせない、見事な紺色。この旗は年一回(たしか7月に実施)の運動会で使った。当時は各地区で旗があった。
・大久保青年団は昭和40年頃まであり、ピークは25人(昭和23~30年くらい)。上根知青年団連合に所属していて、山之坊青年団とも交流していた。
・上根知は、大久保、別所、山口、大神堂、梶山、山寺(一心会)、上横、稲場、上町屋、大工屋敷に青年会があり、団結力は強かった。青年会の運動会は200人くらい参加していたかな。
・青年会で興行師を呼んでいたこともある。冬には演芸会を青年会主催でやっていたこともある。
・青年会の卓球大会もあった。夕方、外にある卓球台でライトをつけて練習していたものだ。
- 集落紹介「大久保集落」 以上 -

エマさんコラムVol.02 「お祭りの宝箱」

お祭りの宝箱
日本全国においてはお祭りが大事でしょうが、糸魚川で驚いたことの一つは独特な伝統行事の豊富さです。前回に書いていたように、根小屋ではサイの神や七夕の飾り作りに参加させていただき、大切な伝統を教えてもらいました。最近はみんなと一緒におまんた祭の踊りや根知の盆踊りをなんとかして覚えました。
イギリスには伝統的な祭りがあまり残っていないためか、その活気がとても好きであり、いつも楽しみます。そして、それぞれの行事を次の世代に伝えるのに頑張っている人々の姿には感動します。地元の歴史を知るため、近所の方々とつながるためにはとても大切な役割を果たしていると思うので、是非続けてほしいですが、参加者の平均年齢がどうしても上がりつつあるのは私にも明らかです。都会や海外にはこのような行事に大変興味を持つ人々がたくさんいるので、移住支援や観光の活動を通じて、何らかの支援ができたらと今考えているところです。
Emma Parker (エマ・パーカー)


2015年8月24日月曜日

根知振興協議会ニュース 2015年8月号(No.17) 発行しました

根知振興協議会ニュース第17号を発行しました。
※根知地区全戸に配布されます。

電子版(カラー版です)はこちらからご覧ください。

電子版_201508号_根知振興協議会ニュース

今月は追加版もあります。

電子版_201508号_追加版_旧大久保集落、上町屋奉納花火特集

みなさんのご意見、ご要望をお聞かせください!

事務局:根知地区公民館内
025-558-2002
nechiko@city.itoigawa.niigata.jp

2015年8月13日木曜日

根知カフェ♪本日営業時間延長! !

本日、根知カフェは、12時まで営業します!!
東京からのお客さまも来ていただいています(^_^)v
アスターや野菜も売ってま〜す♪

2015年8月8日土曜日

ミニ根知♪実施中♪

昨日から、横浜国大-子供の集落生活体験プログラム「ミニ根知」が始まりました(^^)v
今日は、五班に別れて根知の生活や自然を体験しています!!

2015年8月7日金曜日

平成27年 日吉神社秋季大祭 まもなく!稽古にも熱が入ります

稽古が始まっています!
8月7日、おててこ会館では秋季大祭の稽古が行われていました。この日は19:30より22時近くまで、会館内のあちらこちらで、子供から大人まで、舞・笛・太鼓の稽古、ベテランから若手への伝統の継承が同時進行で続いていました。
この稽古を取材するたびに感じるのは、目には見えない伝統の密度の濃い空気感。山寺集落の特徴を一文字であらわすと「結」だと感じます。8月23日
に舞台掛け。それ以降の稽古はお宮の舞台にて行われます。
いよいよ8月31日(月)に宵の宮、9月1日(火)に本祭です!

ご参考:歴史講座にて「和泉の大旗」
7月18日(土)に公民館主催の歴史講座がありました。その時のテーマが「和泉の大旗」。なぜ和泉から二つの大旗が山寺に到着しないと祭が始まらないのか、諸説が繰り広げられました。その時の「説」をご紹介します。
・山王社の御祭りは当時の領主が許可し祭りに際しては酒や料理などを準備し提供していたが、領主の代理として、当時の和泉での二大勢力であった青木一族、北村一族がそれぞれ酒、料理を運んでいて、旗も一緒に運んでいたのが始まりではないか。
・そこから当時の二大勢力である青木一族、北村一族の旗が到着するまで祭がはじめられないことに繋がっていく。
・昔は山王社は現在の根知郵便局の裏あたりにあったが、元禄時代のあたりに、山王社が山寺に移された。
・戦前までは和泉から山寺の山王社に、青木一族、北村一族の子孫方が旗を持っていく伝統を維持していた。
・戦後は和泉区がその伝統を引き継ぎ、区民が2つの大旗を山寺に運ぶようになった。
……いかがでしょうか?
当日には、遠い過去の様子を想像しながら、大旗の到着や祭の様子をご覧になってみてるのも面白いですね。

記事:集落支援員(近藤)

山口集落の七夕行列 珍しい七夕人形の風習が今も残る集落の行事です

全国的にも珍しい七夕人形が今も残るここ根知地区
各集落で子供からお年寄りまで一緒に作って7月7日に道の上にぶら下げ、
8月7日にそれを外してみんなで行列を作って運び、手作りの船にのせて根知川に流す。
昔は各集落で行っていたこの伝統行事も維持が難しくなりました(規制が厳しくなり、水流も減り、川に流すことが難しくなりましたし、人手も少なくなりました)が、今でも5か所(と公民館)で七夕人形を作って道につり下げて飾る風習が残っています。
※7月7日からの七夕人形の様子はこちらから
「根知の5か所と公民館前に七夕が飾られています(^^)」

その中で山口集落は唯一、8月7日に集落のみなさんが松明をともしながら七夕を根知川まで唄を歌いながら運び、燃やす行事を100年以上続けています。

その様子をご紹介します。
19:00(午後7時)、山口公会堂前集合となっています。
10分まえの公会堂の様子です。毎年の伝統行事、暑さもこの時間は落ち着いて、とてもゆったりとした時間が流れています。子供達の声も聞こえてきます。
19:05過ぎごろ。「もうそろそろやろうかね」「やんない、やんない」
松明に火がともり始めます。
この松明、手作りのアイデア松明もあちこちから集まっていました。棒の先に缶ビールの空き缶がくくりつけてあり、その中に灯油をしみこませたボロが詰められているものなども。
火がつくまで気づきませんでしたが、かなりの松明の数です。
まだ真っ暗ではない中ですが、松明の行列の炎が光輝いています。
一瞬のうちに別世界が現れたような・・・はじめて見る人はドキリとするかもしれません。
出発の様子の動画です。
唄を歌いながら、松明が揺れる、遠い昔から続く行列。
とても幽玄な、今どこにいるのかフッと忘れてしまいそうな雰囲気でした。
山口公会堂から山寺橋までの10分ほど。
途中通る家々では、両手を合わせて祈る方も見られます。
行列の途中の様子、もう一つの動画をご紹介します。
山寺橋が近づいてきました。
(取材という立場で外から見ていると、公会堂出発のときと、このときの地元の人々の雰囲気、様子が変わっているようでした…)
19:15ごろ
山寺橋に到着です。
みんなで持っていた七夕飾りを橋の下におろしていきます。
男衆3,4人が下に降り、七夕飾りを受け取りました。
「以前は船で流したけど、40年前くらいには川へ物を流すことが厳しくなり、燃やすようになった。川の水も当時よりずいぶん少なくなったよ。」
50代の男衆が小さい子供だったころの船に流す情景が鮮明に残っておられるそうです。
地域の方々で布を集め手作りで作った七夕人形やお飾り、すべてを燃やします。
炎がとても印象的な動きでした。
「ずっと晴が続いていたから、今年の燃えはいい。前日雨が降っていたりするとこうはいかない。」
動画:燃やしている方々、橋の上で観ている方々の様子です。
19:25過ぎ。ほぼ燃えきって、炎を見守っていた、皆さん戻っていきます。
山口集落のみなさんは、これから公会堂で直会です。

※そのあと、ちょうど根知を訪れている「ミニねち」のみなさんや、早稲田大学インターンシップのみなさんが来られました(ちょっと時間がずれてしまいました…)。
記事:集落支援員(近藤)