2015年8月25日火曜日

特集:集落紹介「大久保集落」

※以下、振興協議会ニュース2015年0825号の追加版記事の内容を掲載しています。

特集:集落紹介「大久保集落」
不定期で掲載するこの特集。今回は「大久保集落」です。
お話をお伺いしたのは山本芳寿さん、屋号情報は伊藤重徳さんです。ありがとうございました。
※聞き手は集落支援員、近藤です。

■大久保集落の概要
・明治22年までは西頸城郡大久保村。集落となり大正には27軒あったらしいが、戦後は23世帯がピーク。
・戸土11戸、横川7戸、おしまわし4戸、中股3戸が戸土の学区であった。
・昭和29年には20戸くらいになっていた。このあたりから減り始めて街、大野へ出たりした。
■産業
・大久保はもともと林業で成り立っていた村、炭焼きの村であった。ほとんどの家がやっていた。
昭和30年がピーク。炭が現金収入の中心で、糸魚川に売りに行っていた。戸土も同じ。
・プロパンガスが入るS34~35年頃に一気に住む人が激減した。
・他の現金収入は牛(肉牛)と蚕(カイコ)。
・牛は大久保はほとんど肉牛。馬喰(ばくろ:牛馬の仲買人の称)が1年に一回くるので売る。
・カイコは1年に3回とっていた。「はるご」(5月、6月に繭玉とれる)、「なつご」(7,8月)、「あきご」(9,10月)。絹糸は1キロ5,000円で売れた。はるごは山の桑。なつご以降はかり桑(畑で育てた桑)を使った。
・大久保にあったトロッコは国のエネルギー政策で実施していた工場用の炭の運搬用。
 →そこで働くために、根知からはもちろん、富山からも沢山の人がきていた。
[炭焼きの生活]
・ほとんどの人が家畜もやっていたから、朝5時くらいから草刈り、1時間くらいやって朝食を食べて、8時ごろに炭焼きに出る。現場は大久保から4キロ前後のところが多かった。
・田植えが終わって、田の草1番、2番が終わる頃、7月中旬に炭焼きを始める。9月半ばに炭を見る。
・①7月中旬。窯の位置を決める。山全体の木を見て、木をどう集めるか(切った木をどう窯まで集めるか、集めやすいか)、水をどう取り入れるか、等々を考慮して位置を決める。※約1週間。
・②窯(と小屋)を作る段取り。※約1か月。窯の型ができる。
・③炭焼き。3回くらい行う。※約3か月。
・1年間に一人が200~300俵(1俵15キロ)炭を作る。1俵は400円くらいになった。
・1つの窯で30~40俵とれるくらいの大きさ。
・「たてかえ」…炭を入れる、出すこと。これは一人ではできない。2人は必要。
・できた炭を大久保まで運ぶ。夕方に2,3俵かついで戻る(炭俵)。一輪車もあった。
・窯は1年で移動か2,3年持つか、木がいい時はその窯の場所で数年もった。
■当時の学校・子供達の様子
・大久保、戸土の子供達は、大正から昭和33年くらいまで、小学生のときは長野県の戸土の小学校で学び、高等科は根知山口へ。
・戦前、戦中は尋常高等小学校。6年間。6.3制で、男子はそのあと尋常高等科、女子は高等女学校へ行く。
・戦後は新制中学となり、義務教育となった。
 →昭和7,8年生まれの人は行っても行かなくてもいいという年代だった。昭和9年生まれの人は中学3年生からはじまった。
※北小谷小学校戸土分校は,へき地等級3級,児童数31名(S.34),昭和46年休校,昭和49年閉校。
※上根知小学校大久保冬季分校はへき地等級2級,児童数12名(S.34)
■戸土、長野との関わり
・電気は大久保は東北電力。戸土(長野)は中部電力。
・今90歳くらいの人達は、大久保と戸土で一緒に運動会をしていた。一度、大久保と戸土で赤白に分かれて戦った時がある。大久保が勝ったが、その後はまた一緒に混合でやるようになった。
・昭和30年くらいまで大久保から歩いて半日で小谷温泉に行っていた。街道沿いに木地屋の人達がいて、漆品などを小谷温泉にもっていって、現金と交換していた。
・戸土と大久保の間に「一石二斗(いちこくにと)」というのがあった。大久保は冬の生活用薪を得るために戸土の木を伐らせてもらう。代わりに米を小作料として渡していた。
■生活・食
・戦後しばらく、戸土の小学校のグラウンドを畑にしていた。食糧については今とはけた違いに厳しかった。80歳くらいから上の人達は経済観念が強いと思うよ。苦労しているから。
・昔は鷹狩も大久保でやっていた。
・昔(昭和30年代)は笹倉温泉や根知梶山でも「湯巻き」が名物だった。ちまきのことだが、米を研いで笹を三角に折った中にいれて、温泉のお湯の中で茹でたり蒸したりする。糸で結んで5つほどにしてぶら下げる。
・大久保でも田畑はしていた。自分たちが食べる分は自分たちで作っていた。現金収入は林業だった。
・早川、西海、能生には工芸品がある。谷が行き止まりだから。主にわら細工(セナコウチン、菅笠、しめ縄など)。根知は行き止まりではないから、そのような工芸品がなかった。
・プロパンで炭が売れなくなった昭和34~35年頃はテレビが入ってきた時期でもある。
 →当初はテレビはこの辺(大久保)では本当に映りが悪かった。
・昭和30年くらいで、ラジオは2軒、蓄音機も2軒。ラジオも感度が悪く、耳をくっつけてきいていた。
・昭和35年、大久保に有線放送が入り各家庭に電話が入った。15軒につき1回線はいるので大久保には2回線はいった。これは便利だった。それまでは大久保のこのあたり(イワナ養殖所)にあったポストに郵便屋さんがきたときに下の状況をきいたりしていたが、そうしなくてよくなった。1回5円。8軒で1回線使っていたが、どこかの家が使っていると他の家では使えない。
・雪深い中で、勤めることは難しい。半年は雪の中。
 →その代り団結力があった「やうち」といって親戚でないけど親戚のような関係をつくっていた。
・ドラム缶で炭焼きすることをここ数年は提案している。入口はオイル缶を使う。
■地すべり
・大久保は昭和19~20年にかけての大雪の影響だと思うが)昭和21年に大規模な地滑りがおき、大久保集落の全世帯が崩壊した。テレビでも全国放送され、大規模な復旧工事があった。掘っては一寸の板を打ち込み、掘っては打ち込み、のひたすら繰り返し。横井戸も7本掘って一本で出た。
・大久保は地すべり地帯。昭和38年、業者がはいり、38,39,40年と調査した。
・5年前(平成22年)にも大地すべりがあり、大がかりな工事が始まった。
■青年団
・大久保青年団の旗がある。色があせない、見事な紺色。この旗は年一回(たしか7月に実施)の運動会で使った。当時は各地区で旗があった。
・大久保青年団は昭和40年頃まであり、ピークは25人(昭和23~30年くらい)。上根知青年団連合に所属していて、山之坊青年団とも交流していた。
・上根知は、大久保、別所、山口、大神堂、梶山、山寺(一心会)、上横、稲場、上町屋、大工屋敷に青年会があり、団結力は強かった。青年会の運動会は200人くらい参加していたかな。
・青年会で興行師を呼んでいたこともある。冬には演芸会を青年会主催でやっていたこともある。
・青年会の卓球大会もあった。夕方、外にある卓球台でライトをつけて練習していたものだ。
- 集落紹介「大久保集落」 以上 -

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