新潟県糸魚川市の根知の情報発信! 根知各地区、根知地区振興協議会、根知地区公民館の事業・行事・活動・イベントをはじめ、根知の見どころ、スポット、概要などを紹介しています。(振興協議会事務局より)
2020年7月21日火曜日
ねちホッと通信75号(7月号)発行しました!
2020年7月1日水曜日
6月、歴史講座の報告
上町屋区から根知川をはさんで対岸の高台「御所」に鎮座する火伏の神様、秋葉社の祭礼は7月24日、前日の23日は宵祭りで花火が奉納されておりますが、いつからかは分かりませんでした。ほんの最近、江戸時代に花火を打ち上げたという証明する書き物が、上町屋の半ら池(なからいけ)(金平晴晤氏)宅から見つかり歴史講座で見ることが出来ました。
江戸時代の末期、文久元年(1861年)の書つけです。手作りの花火は、田植えが終わり1カ月ほどの間、若連中が、田の隅に小屋掛けして作製していたと言い伝えられていて、その田んぼを焔硝田とよんでいました。
当日はその日張られた灯籠を棹の先につけ、今の上町屋橋の上流百メートルほどの橋を渡り勢揃いしたら、一発目の打ち上げ、明治の中頃までは10戸に満たない小さな部落であったが、大正に入る頃は元の役場も出来て、24戸ほどに増えその後50戸をこえる、めずらしい地区です。御前山参りの急坂を登る所々で「上げろ」の大声で一発又一発、秋葉社で三発ほど計10発で打ち上げ終了。この花火中断した事があります。大正の初め、2年続けて止めていたら、大正3年9月12日の夜10時頃、連日の南風でカラカラかわいた強風の日、上町屋の上手から火災が発生、お堂まで含めると11戸か12戸が全焼。
「これは花火を止めたから、秋葉さんの祟りであろう」と代表数名が静岡の秋葉神社本社のお札を受けに行って来て再開となり、以後休むことなくと言いたいが、太平洋戦争中は止めていたと推測します。そして再開されてから一度も休むことなく続けられています。子供の頃は今の上町屋橋は木の橋で、その欄干の親柱に打ち上げる鉄の筒をしばりつけ、花火師は一人だった。「もう少しむこうにいっておれ、近くにくるな」言われて後にさがるが、ズドン、腹にくる。見上げれば空一面の花火の広がり、そして青年会の頃は花火師の手間取りで、花火の玉が並べてある折箱から玉の糸を通す所にめんしだったかを通し花火師に手渡す。鉄の筒は大きな石に立てかけ、たおれないように持てるくらいの石で脇をかためてあり、その中に火薬を入れて玉をつるし、糸をぬく花火師が口火をポイと入れると「ズドン」筒が火を吹く。その前に耳をふさぐ、これも腹にきた、真すぐに上がれば頭上、花火の笠、その後あの規制この規制で打ち上げる場所が二転三転したがここ数年安住の地へ、高台で良い所です。
最近のコロナさわぎであるか、その昔根知に伝染病がはやった時、患者を隔離した隔離病棟があった所、今年は火伏だけでなく、コロナ伏せの花火と欲張りますか。30発ほどと聞いております。幾つまで上がったか数えられる花火、根知の夏祭りをつげる夜空の彩り、どうか晴天でありますようにと祈ります。
文責 M
根知の道路元標の話
能生の丸山さんの調べによれば、道路元標の法律は大正8年に出来たが設置されたのは11年ではなかろうかと話されたが、根知の道路元標、上町屋の今は前川さんが住んでいる元の屋号「下駄屋」その横に建っている。なぜそこか、それは新しい今の県道がほぼ出来上がり道路元標を建てるとすればここしかなかったと思われる。それは明治10年代に山寺、大神堂、転石、上野、東中、中山を越えて大野へ、今の国道が出来るとほぼ平らなその道路につなぐため火打山をへつり楽に物資を運ぶ道に着手する。明治20年代上根知村、中根知村、下根知村が出来て中根知村の役場はその時はまだ無かった道路元標の付近にあったと思われます。その後34年には根知村となり上町屋に役場がおかれる。その役場の近くから前述の東側を通る道に行く橋がかかっていた。渡りおえて右手に行けば大神堂、左手にゆけば転石から上野へ、途中から急坂を少し登り御前山へは目の前の道上沢は右の道、しかしこの道路元標のある所は明治から大正にかけて大きな水害で流されたと思われる。それは東京から移住した、上沢さん(屋号江戸さ)がこの付近に住んでいたが水害で家屋を流され、水害の心配ない所へ移転されたと、役場も郵便局も移転したと思われるが、根知川を渡る要所は変わる事なく続いたと思われます。いつの頃かわかりませんが今の上町屋橋が出来て人の流れが変わり、荷車からトラックの変わり道は広くなり砂ぼこりが立たない道になったのを道路元標は100年ずっと見続けてきて、今はひっそりと立っています。文責:M
道路元標
道路の起点、終点、経過地を表示するための表示物。1919年(大正8年)の旧道路法により各市町村に一個設置することとされ、その位置は知事が定めるものとしている。ただ、東京市については日本橋の中央と定められていた(日本国道路元標)。
1922年(大正11)の内務省令は、その材質について、石材その他の耐久性のものを使用すること、正面に市町村名を記す事、寸法なども明示していた。
大正11年には全国に12,315の市町村があった。
道路元標の大きさは、縦横25センチメートル、高さ約63センチメートルの直方体で、一般に頂部が弧を描くように丸く削られた形状をしており、材質は花崗岩で製作されているものが多い。
日常生活で使用していた例:ふるさと歴史散歩[今井暦友会の記録]から該当を抜粋
昭和63年5月29日(日) 講師 今井八幡宮宮司 銀林美麿氏
今井七地区の神社巡り ( )内は銀林美麿氏が注記したものと思います。
(1)菅沼地区 七社神明社 (大谷地村誌)
大字大谷地字長畑一五○五番地鎮座
「七社神明社ハ、元標ヨリ酉(トリー西)ノ方ニアリ、社殿南向キ・・・」
(2)不動滝、水神社(大谷地村誌)
「元標ヨリ未(ヒツジー南々西)ノ方、不動瀧ノ下ニテ厳上ニアリ、・・・」
糸魚川市内に残っている道路元標
糸魚川町道路元標 青海村道路元標
大野村道路元標 浦本村道路元標
根知村道路元標 下早川村道路元標
市振村道路元標 上早川村道路元標