インタビュー②
根知在住:女性(80代後半)
「結婚してここにきたが、一番寂しいのは駒ヶ岳、雨飾山が見れなくなったこと。当時は結婚は親の言うことをきかないといけなかったからねぇ」
ちょっとした立ち話からお話しが展開し、思いがけず貴重なお話しをいただきました。
--------子供の頃について教えてください
小学校のときは毎日兵隊送り。学校が終わると兵隊にいった留守家族の百姓の手伝いをした。
学校終わったら根知にはおられん。お国のためにとにかく働くという空気だった。戦争は絶対に負けんという想いが頭にあった。
16歳で愛知県の三ノ宮紡績へ行ったが空襲が激しくなって、17歳ごろは三重県四日市の紡績工場に移って働いた。ここで人生一番の薬になったことがある。体操の工場代表12人の一人に選ばれ県大会に優勝、メダルをもらい翌年の明治神宮での全国大会に出られることになった。着る服がなく実家に連絡したところ「それならやめなさい」という返事。逆に服がなくても絶対に出ようと心底奮い立った。いまでもその時のことは鮮明に覚えている(結局、18歳のときにさらに戦争が激しくなって根知にもどってきたのだけれど)。
その後終戦になったが、それまで「銃後の守り」。とにかくお国のために働くことしか頭になかった。
戦後数年間は着る物ない、食べる物ない、何もない、どこに行っても何もない。今の日本は大災害といっても生活できる、着るものも食べるものもある、あのころに比べたら比べられないくらい幸せなことだ。
--------当時の根知について
戦後しばらく、根知では、生の魚、肉は糸魚川のお店に行かないと買えなかった。車は根知で1、2台。おおかたは汽車に乗っていた。戦争当時は、木炭バスが走っていたっけ。
終戦翌年に盆踊りが再開されたと思う。
--------これまでの人生で一番幸せなことは?
若い時は本当に本当に何もなかった。「食べたい」という気持ちしかなかった。幸せねぇ…楽しかったことで一つ思い出すのは、ようやく50歳を過ぎて、子育てが終わって(昭和55年頃)孫もできて、東京に遊びに行ったことかな。
※戦中、戦後、10代、20代に言葉に尽くせない苦労を経験されて、必死に生きてきた状況が鮮明に伝わってきました。今の日本の豊かさは当たり前ではない、このように苦労されてきた方々の生き様が積み重ねられてきていることを改めて感じざるを得ません。
聞き手:集落支援員(近藤)
※集落取材やインタビューについてのご意見をいただければ幸いです。
事務局(公民館内)まで。
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